(人を嫌いにならない考え方を思い付いたので)人を嫌いになるのをやめた!

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「罪を憎んで人を憎まず」
嫌な言動をされてその人のことを嫌いになりそうな時、ふと浮かんできた有名な言葉。
結果、その人自身を嫌ったりしなくてもいいという選択ができたのでとても心が軽くなった。

自分の豊かさとは反する言動をする人をみると、
「うわ~~嫌いだ」と割と結構早く感じる。

人に嫌悪や憎しみを向けることは疲労がとてつもない。
身体の中に淀んだ重みといらつきを、嫌いという対象者というだけでいちいち敏感に感じるからだ。
そして、どこに行っても万人を受け入れられない心が狭い自分に嫌気が刺す二重苦。

「罪を憎んで人を憎まず」。この言葉のとおりに考え方をシフトすると、
人と言動を切り離せるので、人にフォーカスをしなくて済む。つまりは疲労感が軽減する。
いろんな事情(それが一般的に、もしくは人によっては良くない言動と知る機会が無かった等)で嫌な言動に繋がっただけ。
どんな言動をされても、以前から大切にしている「人は生きているだけで尊い」という考えも維持できる。

さらにこの言葉は「罪は憎んでもヨシ!」ということだと今回捉えてみることにした。

以前は嫌な言動をされても「ま、人は生きているだけで尊いから」という魔法の言葉を唱え、
その嫌な言動が豊かであるかどうかのジャッジを重ねに重ねても言動を反芻するという嫌な時間が増えるだけで
最終的には「人は生きているだけで尊い」に帰結するしなぁ、とボンヤリさせて考えないようにしていた。

ただ、嫌な言動の回数が重なると、その魔法の言葉で消化しきれなくなるということがわかった。
嫌な言動が消化しきれず、忘れる許容量を超えて常に浮遊している状況だ。
嫌な言動という浮遊物は常にあるので意識するも、自分の豊かさとかけ離れても言動とセットのその人を尊重、
つまりは同列に扱わなければならず、
自分の豊かさや大切なものがぼやけて自分がガタガタ崩れてしまう場合もある。

そこで「罪は憎んでもヨシ!」
「あっ、”罪を憎んで~”ということは罪は憎んでも良いんだ!」と思って憎むことにした。
憎むと言っても、自分の豊かさと照らし合わせるという作業に近い。
照らし合わせて、私の考えとは違うな、とか、そういう考えもあるんだな、とか、
前述したように良くない言動と知る機会が無かったんだろうな、
という、単なる事柄を照らし合わせるだけで終わり。
人を嫌いになるという作業が入らないので、疲労がとても少ない。

また、他人と自分、両方の尊厳を守れる考え方だとも思う。
罪だけを憎んで「他人もやっぱり生きているだけで尊い」と思えるし、
罪だけは憎むことができるのでモヤモヤを消化でき、人を嫌ったり憎まずに済むので他人の尊厳を傷つけなくて良くなる。
他人の尊厳を傷つけない生き方ができているという心地よさも。

でもやはり、照らし合わせるのも疲労はあるので照らし合わせる機会が少ない環境に身を移すという選択はしていきたい。
人は環境に慣れていくものだと思うので嫌な言動が多い環境だと自分の中の豊かさが揺らぐ可能性もある。
従来だと「あいつらなんて嫌だ!環境変えたい!」というような激しいものがあったように思う。
前述したが、その考え方だと他人が嫌いなのはもちろんだが、同時にどこに行っても人を受け入れられない心が狭い自分に嫌気が刺す二重苦がつきまとう。
ただ、言動だけにフォーカスすると、その人が好きか嫌いかの0か100かではなく、
「その環境に存在する嫌な言動の総数」という、とてもゆるやかで客観的な判断基準を持てるような気がする。

生きやすさがもうひと段階上がったような気がします。

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